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映画『スパイの妻』感想

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 『スパイの妻』を観てきた。実写の日本映画を観たのは久しぶり。結論からいえばなかなかに面白かった。どう展開してゆくか分からない不気味さに引き込まれるし、日本でタブー視されてきた歴史に切り込んだ点も意義深い。娯楽的な楽しさと社会的なテーマをみごとに両立させていた。
なんというか、せっかく国際映画祭で大きな賞を獲ったわりに、鬼の映画と公開日が丸かぶりしたからか影が薄い気がする。こういう社会的な娯楽映画、どんどん作られてほしいからもっと盛り上がってくれ〜〜!!

 

あらすじ

1940年の神戸。聡子は貿易会社をいとなむ夫の優作と、何ひとつ不自由なく幸福に暮らしていた。ある日、優作は用事のため数週間のあいだ満州へ滞在することになる。満州から帰ってきた夫は、どこか様子がおかしい。そんなとき、聡子は軍につとめる幼なじみの津森から呼びだされ、優作にスパイ容疑がかかっていることを知る。動揺する聡子は、どういう選択をしてゆくのか。

感想

独特なセリフの抑揚が特徴的だ。身振りの大きさもあいまって舞台演劇のようである。一歩間違えると滑稽な感じになってしまいそうだが、本作の場合は大げさともいえる演技が、戦争直前・戦中の日本に流れる狂気とうまくマッチしていた。

また、作品をとおして「映画」が重要なモチーフとして扱われている。
優作は自主映画制作が趣味であり、聡子を主演として映画を撮る。撮ったフィルムの映像が、大切なシーンで繰り返し登場するのだ。「映画」を重要な位置においた意味はさまざまな解釈ができるが、おもにふたつのことが思い浮かんだ。

ひとつは、「人は、いちばん大切な人に対してでさえ自分を隠して演技をしている(=ウソをついている)」ということだ。
優作はスパイなのか?聡子はなぜあんなことをしたのか?とさまざまな疑念やウソが交差しつつ物語は終着点に向かってゆく。さらに、登場人物がみな舞台劇のような抑揚や動作をしていることが、わざとらしい演技感を醸し出している。
「映画のパワー」を強調する役割もあった。優作が満州で撮影した映像が、ひどい人体実験がおこなわれていることを暴く証拠になった。そして聡子が罪に問われずに済んだのも映像が要因であった。

音楽や衣装が、作品の世界観を増している。序盤での幸福な二人の日常から打って変わって、満州後は優作と心の距離ができる。聡子の胸中に彼がスパイなのではないか?という疑念が渦巻くシーンで、オーケストラが重厚に響く。

また、1940年には大戦が徐々に現実味をおびてきて、和服を着ることが推奨されていた。街を歩いていても周りの人はほとんどが和服か、洋装していても地味めな色味である。そんななか聡子が着ているのは、あざやかなマスタード色で、首もとに大きなフリルのついた洋服。優作も当然のごとく、どこへ出かけるにもスーツだ。
当時の西洋の流行を取り入れた服装が、日本では異質な存在として浮いている。自分を貫く聡子と優作を反映したファッションといえる。


観る前にちょっと懸念していた「妻」の描きかたも、悪くはなかったと思う。
結局のところ聡子は優作への狂信的ともいえる愛が原動力になっている点や、最後まで「妻」という枠組みの外に出ることがない点はあるが、すくなくとも物語を動かすための装置になってはいない。(欧米や韓国映画と比べてしまうとちょっと・・・ではあるけど)。

※ここからがっつりネタバレ
最初、優作は聡子のことを守らなければいけない弱い存在だと考えていた。だから、満州でどんな地獄を見たか、裏でなにを画策しているのかを伝えなかった。優作の甥であり、ともに満州へ行った文雄が、裏で優作が何をしているのか教えてほしいという聡子にたいして「あなたはなにも知らない。満州で行われていたことも、優作さんがあなたのことをどれだけ守ってきたかも」というようなシーンがある。しかし、優作も聡子のことを分かっていなかった。

聡子は、「売国奴」になろうとする優作に最初は反発する。ところが、満州での人体実験のようすを映したフィルムをぬすんで鑑賞すると、世界に伝えるべきだと判断して、優作とともにアメリカに渡る決意をする。彼女は優作がイメージしていたような、弱くて事実を知ったら耐えきれない人物ではなかった。

そして聡子と優作の双方が、相手のことを考えつつも、自分勝手な面を持ち合わせている。妻は夫を献身的に支えて自己犠牲もいとわなかったり、女の影への嫉妬にかられて行動する存在だという描きかたではない。

優作は、二人の幸福な生活よりも戦争を終わらせることをとった。優作にとって最良の選択だったのだろうが、聡子の身にも危険がおよぶ可能性があるにもかかわらず、相談せずに決めるのは自己中心的といえる。

いっぽう、聡子も我を突き通す場面がある。聡子は憲兵の津守に、文雄が人体実験の詳細を記したノートを渡す。ノートという物証によって、文雄はスパイであるとして拷問を受けることになった。無事にアメリカに証拠を届けるためだというが、正直密告しなくても計画はうまく進んだように思える。
しかしそれでは、聡子はいつまでも守られるだけの存在で、計画に関わることはできない。聡子が優作の唯一の協力者であり、共犯者になるために文雄を切り捨てたのだと考えることができる。

ひとつどういう解釈をすればいいのか決めかねているシーンがある。
終盤、二手に分かれてアメリカに渡ろうとしたが、聡子は匿名の通報で憲兵に捕まってしまう。おそらく、通報したのは優作だろう。
しかし、なぜわざわざ通報したのか。聡子を名実ともに「スパイの妻」にしないためだろうか、それとも優作がより安全にアメリカへ渡るためだろうか。

もし前者だとしたら、聡子を日本に置いていく
選択は、本人の意思や身の安全より体面を取ったということだ。優作は、アメリカに映像を渡したら、参戦して日本が火の海になるということがわかっていたし、聡子たっての望みは優作と一緒にいることである。にもかかわらず聡子を置きざりにしたのは、西洋的な価値観を持つ優作の行動原理らしくない。

好意的に考えれば、心から聡子のためを思っての行動だということもできる。「二手に分かれる」という計画をはじめて聡子に話したとき、聡子は「怖い」と震えて泣き出しそうだった。そこでやはり巻き込むのはやめようと思い直しただとか。
だが、真の要因は分かりようがない。優作の心情面はほとんど語られないからだ。聡子の視点で物語がすすむため、優作の考えは聡子に吐露したこと以外知ることができない。


聡子が正気であるのに精神病院に入れられたのち、懇意の医者に言った「この国では、狂っていないことが狂っていることになる」ということばが重い。
聡子が生きた時代にとってはもちろん、現代でも思い当たるふしはある。自分だって狂っているのではないかと疑いつつ、今日も狂った世界で生きていきます・・・。