部屋の隅で映画と本

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映画と本の感想ブログ

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お久しぶりの更新 アンド『華氏451度』感想


久々にブログを開いてみたら、もう7ヶ月くらい更新してなくてびっくりした・・・・。
最近書いてないなーとは思っていたけど、せいぜい3ヶ月くらいだと思っていた。時の流れが早すぎる。


ブログを書いていないあいだ何をしていたかというと、とあるバレー漫画にどハマりしてひたすら絵を描いていたり、12年近く待ったゲームの続編が発売されてひたすら(ゲーム内の)渋谷の街を練り歩いてたりしていた。


そんなだからここ数ヶ月は映画館から足が遠のいてしまっていた。配信では変わらず観ていたし、本も読んでいたけど。

しかしブログを開いたら文章を書きたくなったので、空白期間中に読んだ本について読書記録をもとに書こうと思う。


はじめに書くのは、レイ・ブラットベリの小説『華氏451度』。6月の100分de名著で取り上げられていた本だ。本を燃やす「昇火士(fireman)」という職業が存在する、近未来ディストピアディストピア小説ってたいてい鬱々とした気持ちになるのに、なんでこうも読みたくなってしまうのか。

 

あらすじ

主人公のガイ・モンターグは、本の所持が禁じられている世界で、本を燃やすことを仕事にする昇火士だ。自分の仕事に誇りを持ち、密告を受けては本を燃やしに行く日々。しかしある晩クラリスという少女と出会い、初めて自由な思想に触れる。風変わりな彼女と話すうちに徐々に自分の仕事に疑問を持つようになり、禁止されている本をひそかに読みはじめたことで、事態は変化してゆく・・・・。

 

感想

結論から言ってしまうと、自分にはあまり合わなかったかも。文章中に散りばめられているラジオ・テレビ批判が、ただ新しいメディアへの拒否反応のように思えてしまったのが大きい。

主人公の妻ミルドレッドは、いつも3枚の壁の前に座っている。夫であるモンターグが話しかけても上の空で、壁に写る映像に夢中である。寝るときには巻貝を耳にはめていて、何かを聴いている。彼女は3枚の壁と巻貝に取り憑かれている。この3枚の壁というのは、テレビを批判的に描写したものだろう。巻貝はラジオだ。

華氏451度』が書かれた1953年は、ちょうどアメリカにテレビが普及し始めたころだったらしい。

古くから存在するメディアで活躍する人は、往々にして新しく現れたメディアを批判するものなのかもしれないなと思った。

本作でブラットベリがテレビやラジオを批判しているように、以前ジョージ・オーウェルのエッセイ『一杯のおいしい紅茶』を読んだとき、同じように映画を批判する箇所があった。おそらく当時は映画が発明されて市民に広まりつつある時期だったのだと思う。

しかし今や映画は娯楽でありながら芸術でもあるし、テレビやラジオの存在そのものに批判的な意見を見かけることもない。現代でいえば、インターネットが批判の対象として記憶に新しいかもしれない。10年20年前まで「オタクのもの」みたいな扱いで、一般的じゃないイメージがあったけれど、今ではインターネットを使わない人の方が珍しい。

華氏451度』が映画化されているところから考えると、映画が当たり前に日常にある時代に生きたブラットベリは映画には批判的ではなかったし、今後新しいメディアが発明されても批判→受容という同じ道を辿るのだと思う。小説というメディアでさえ、1700年代?に世間に流通しだしたときは低俗なものみたいな扱いを受けていたと聞いたことがある(あいまいだけど)。いつの世でも変わらんのだな。

 

おわりに

久々にブログ書いてみると、自分が言いたいことが人に伝わるように文章を構成するのってむずかしいと実感。
しょっぱなにあんまり合わなかったと書いたけれど、面白いと感じる部分もあったよ!社会の「速さ」や「加速すること」に対する信奉への皮肉とか。自分は世界の流れの早さに疲れがちでもっとのんびりしてても生きやすくならんかなと思う一方で、2時間越えの映画を長いと感じて観るのを後回しにしてしまったりと、速さ短さ信奉に浸かってもいるから印象的だった。

たしか100分de名著で映画版が面白いと話していたから、そっちも観てみたい。