部屋の隅で映画と本

部屋の隅で映画と本

映画と本の感想ブログ

MENU

『彼岸過迄』──結論が与えられない物語の美しさ

彼岸過迄』は、夏目漱石の後期三部作と言われるうちの一冊だ。

実は高校を卒業したころに買ったきり、しばらく本棚の肥やしにやっていた。高校の教科書に載っていた『こころ』が好きで、別作品も読んでみようと思って買ったのだと記憶している。

しかし、もともと『こころ』を好きになった動機が不純であり(「先生」と主人公の関係にときめいていた・・・・)、本書にも勝手に萌え要素を期待して勝手に裏切られ、最初の数十ページで止まったままになっていた。なのでかなりしばらくぶりに、ふたたび開いたことになる。


本作は、大学を卒業したばかりでまだ働き口を見つけていない敬太郎が、同じ下宿先の森本や、大学の友人である須永の話を聞き、人生の片鱗を垣間見るというストーリーだ。

特徴的なのは、登場人物の悩みやいざこざが何も解決しないし、出来事の結論も与えられないということ。本作の大部分を占めるのは、主人公であり傍観者の敬太郎の友人である、須永という内向的で裕福な家の青年と、千代子という須永の従姉妹との恋愛問題である。

須永は、千代子のことが好きなのか好きではないのか、自分の気持ちが分からない。なのに千代子が他の男と一緒にいるのを見ると、嫉妬をしてしまうということに苦しんでいる。

千代子は須永のことを悪からず思っているが、同時に煮え切らない態度の須永を軽蔑してもいる。明治時代の名家の話なので、恋愛関係は二人だけの問題ではなく、親族もいろいろな思惑を抱えている。

二人の関係は、進むも地獄で進まぬも地獄という泥沼にはまって抜け出すすべがない。しかし、最後まで二人は結婚したのか、しないのかは語られない。主人公・敬太郎自身が二人の関係に首を突っ込んでどうにかするようなことはないし、物語はあくまで敬太郎が聞いた断片を通してしか知りえない。

読み終わって「結局須永と千代子の関係はどうなったのか」という部分が気にならないというのは嘘になるが、他人の人生の断片を聞くってそういうものだよなと妙に納得もしてしまう。

人によっては須永の態度にイライラするかもしれない(笑)。私はむしろ須永の煮え切らなさや、考えばかりが先行して行動がともなわないところに共感してしまったが。

おわりに

今読むとすごく好きな作品だった。多分、本書を買った高校卒業時に読んでもよく分からなかったと思う。

内面の動きについて共感できるだけではなく、質感を感じられる。たいてい古典を読むときって、その時代に起きていることを遠い場所から覗いているような気持ちになるのだが、本作は現在起きていることを物語の内側(敬太郎の位置)から眺めている感覚になる。言語化するのが難しいのだけど、全然違う時代を生きている人が書いた作品なのに、登場人物の心情とシンクロできる。

たいてい小説を読んでいるときには頭の中にそのシーンの映像が思い浮かぶのだが、本書では一度、映像だけでなく音や感触も一緒に感じて何だか怖くなって本を閉じた。いやマジ。そのくらい没入感がある。

読みやすくて言葉が美しい。過分がなければ不足もない。ページを俯瞰すると漢字ばかりでとっつきにくそうな感じがするのに、一行一行追ってくとスッと頭に入ってくる不思議。

あと物語の内容にはあまり関係ないが(いや結構あるか?)、「高等遊民」というワードを初めて知った。家がお金持ちで働かなくても生活できるので大学を出ても職にあくせくせず、読書などして過ごす人のことを言うらしい。パワーワードで笑ってしまった。私も高等遊民になりたい。