李陵・山月記―大人になってからこそ面白さの分かる一冊
あらすじ
舞台は中国唐の時代。主人公の李徴は科挙試験に合格する秀才だったが、詩人を志して官職を辞める。経済的困窮からふたたび下級官史の職に就くが、プライドが高く発狂して虎になってしまう。かつての友人・袁傪が山道を通ったとき、虎に襲われかける。袁傪はそれが李徴だと気づき―‥‥
感想
中島敦の「文字禍・牛人」が想像以上に面白かったので期待して読みはじめた。山月記は高校の教科書に載っていたから何度も読んだはずなんだけど、意外と内容は忘れていた。「その声は我が友、李徴子ではないか?」が流行ったのだけはめちゃくちゃ記憶にある。
高校時代からある程度年齢を重ねたいま読んだほうが、虎になってしまった李徴への理解や共感が深い。まあ当然と言えば当然か。李徴に共感する高校生がいたら成熟がすぎる。
「ーー残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を翻して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰り返し呟くのが聞こえた。」
名言や有名なシーンは数あれど、私が好きなのはこの場面かもしれない。李徴が人間の理性を失い、虎の本能でかつての友人を襲いそうになるが、すんでのところで正気を取り戻す。理性と本能のシーソーゲームだ。李徴、虎になっちゃったけど、かなり人間くさい。
そしてこのあと、高校で流行りがちな「その声は、我が友、李徴子ではないか?」という言葉がつづく。
ここ、巨大感情センサーが働いた。もともと友人の少なかった李徴が人間の姿をした袁傪を一目で彼だとわかるのはそうだよなという感じだが、おそらく友人が多い上に、しばらく会っていなかった袁傪が、声だけで李徴だと分かるのすごくない?
草むらに隠れている虎を「李徴じゃね?」って認識する。李徴だと当てられて彼が1番最初に感じたのは嬉しさじゃないだろうか。その後に恥ずかしさ悲しさ。
今の自分に刺さったのは次の箇所。
「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物との間に期することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。」
心のうちを言い当てられているよう。かなりの人が共感する普遍的な心の動きだと思うけど。中島敦も李徴に自分を重ねて書いたのだろうか。
臆病な自尊心と尊大な羞恥心って言葉の威力がすごい。この文だけで李徴が胸の内にどんな獣を飼っていたのか分かる。類語的に組み合わせるのならば「臆病な羞恥心と尊大な自尊心」だけど、それじゃ表せられない意味合いがある。
おわりに
学生時代に教科書で読んだことある人が多いと思うが、大人になってから読む山月記はまた違った凄みがある。気になる方はぜひ読んでみてください。