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『一人称単数』──自伝的ともいえるフィクション小説

村上春樹の短編集。題名のとおり、一人称「僕」「私」の語りで進行して、名前が明かされることはない。(「ヤクルト・スワローズ詩集」には、「僕」=村上春樹 だとわかる箇所があるが。)ただ、すべての短編の「僕」は村上春樹なのではないかと思えるくらい自伝的要素がつよく感じられる。

小説とエッセイの間の物語を読んでいる気分になった。

 

8つの短編の中でいちばん好きだったのは「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」。

主人公の「僕」は、1950年代に亡くなったアルトサックス演奏者のチャーリー・パーカーが実は生きていて、1963年にボサノヴァ音楽を演奏したアルバムが発売されたという架空の音楽批評を雑誌に書く。するとその十数年後、「僕」はニューヨークの中古レコード店で架空であるはずのアルバムを発見したり、夢にチャーリー・パーカーが出てきて自分のために演奏してくれたりする。

夢の中で自分のためだけにアルトサックスを演奏してくれた彼は、「君は私に今一度の生命を与えてくれた。そして私にボサノヴァ音楽を演奏させてくれた。私にとって何より嬉しい体験だった。もちろん生きて実際にそれができたなら、更に心躍ることだったに違いない。しかし死後においてさえ、じゅうぶん素晴らしい体験だった。私は常に新しい種類の音楽が好きだったからね。」と語る。

もちろん夢だから、「僕」の願望が具現化しただけかもしれない。それに仮にチャーリー・パーカーボサノヴァ音楽が流行るころまで生きていたとしても、ほんとうに心躍らせて演奏したかも分からない。というか、自分が書いた偽の記事に死んだ本人が感謝すると思うなんて、厚かましいともいえる。

しかし逆に、チャーリー・パーカー自身が亡くなった後も、たとえ無意識であっても「僕」のなかには彼が根づよく存在しているのがわかる。チャーリー・パーカーは肉体的には1950年代に消えてなくなったが、以降も人の意識のなかに存在する。もちろんそれは厳密な意味での本人ではなく、ミーム化されたものだが。

星野源『continues』の「命は続く 日々のゲームは続く 君が燃やす想いは 次の何かを照らすんだ」という歌詞を思い出したりもした。

(「僕」=村上春樹だとすると)ジャズが好きな村上春樹は少なからずチャーリー・パーカーなどのジャズ演奏者に影響を受けてきたはず。その村上春樹が書いた小説に影響を受けて創作活動を始めた人も多くいるだろう。そしてまた次の世代の人たちが・・・と本人の手元を離れた意識下で受け継がれていく。

 

あとはやはり、題名にもなっている書き下ろしの「一人称単数」も印象的だ。

ある日の夕食後、ひとりで暇な時間を持て余した「私」は、読書をしようにもなんだか身が入らない。そこで、特に理由もなくスーツを着て街に出かけることにした。バーに入って読書を再開した「私」だったが、鏡に映る自分を見ているとどこかで人生の回路を取り違えてしまったような、ずれの意識を感じはじめる。そのとき偶然隣に居合わせた女性に声をかけられる。

この女性は、なかなか強烈に「私」を批判する。いきなり「そんなことしていて、なにか愉しい?」と尋ねられて面をくらっているところに「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること」と続ける。

また、彼女は「あなたのお友だちの、お友だち」であるらしく、「あなたのその親しいお友だちは、というかかつて親しかったお友だちは、今ではあなたのことをとても不愉快に思っているし、私も彼女と同じくらいあなたのことを不愉快に思っている。思い当たることはあるはずよ。よくよく考えてごらんなさい。三年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんな酷いことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい」と強めの言葉で非難する。おぞましいなんて言葉、よっぽどのことがない限り日常で使わん。

面白いのはこの女性の批判が、村上春樹の小説でよく登場する「都会的で、スマート」な小道具や、女性の扱いかたへの言及になっていることである。小説をかたちづくる特徴的な要素であると同時に、批判の対象になったりもする部分だ。その言及のしかたは自己批判とも自己擁護ともとれるが、皮肉っていることは間違いない。

正直みずからその部分に触れてくるとは思わずおどろいた。触れた以上、次作以降の小説でその2つの要素をどう扱うかが気になるところでもある。

 

 

 

一人称単数 (文春e-book)

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