部屋の隅で映画と本

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映画と本の感想ブログ

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お久しぶりの更新 アンド『華氏451度』感想


久々にブログを開いてみたら、もう7ヶ月くらい更新してなくてびっくりした・・・・。
最近書いてないなーとは思っていたけど、せいぜい3ヶ月くらいだと思っていた。時の流れが早すぎる。


ブログを書いていないあいだ何をしていたかというと、とあるバレー漫画にどハマりしてひたすら絵を描いていたり、12年近く待ったゲームの続編が発売されてひたすら(ゲーム内の)渋谷の街を練り歩いてたりしていた。


そんなだからここ数ヶ月は映画館から足が遠のいてしまっていた。配信では変わらず観ていたし、本も読んでいたけど。

しかしブログを開いたら文章を書きたくなったので、空白期間中に読んだ本について読書記録をもとに書こうと思う。


はじめに書くのは、レイ・ブラットベリの小説『華氏451度』。6月の100分de名著で取り上げられていた本だ。本を燃やす「昇火士(fireman)」という職業が存在する、近未来ディストピアディストピア小説ってたいてい鬱々とした気持ちになるのに、なんでこうも読みたくなってしまうのか。

 

あらすじ

主人公のガイ・モンターグは、本の所持が禁じられている世界で、本を燃やすことを仕事にする昇火士だ。自分の仕事に誇りを持ち、密告を受けては本を燃やしに行く日々。しかしある晩クラリスという少女と出会い、初めて自由な思想に触れる。風変わりな彼女と話すうちに徐々に自分の仕事に疑問を持つようになり、禁止されている本をひそかに読みはじめたことで、事態は変化してゆく・・・・。

 

感想

結論から言ってしまうと、自分にはあまり合わなかったかも。文章中に散りばめられているラジオ・テレビ批判が、ただ新しいメディアへの拒否反応のように思えてしまったのが大きい。

主人公の妻ミルドレッドは、いつも3枚の壁の前に座っている。夫であるモンターグが話しかけても上の空で、壁に写る映像に夢中である。寝るときには巻貝を耳にはめていて、何かを聴いている。彼女は3枚の壁と巻貝に取り憑かれている。この3枚の壁というのは、テレビを批判的に描写したものだろう。巻貝はラジオだ。

華氏451度』が書かれた1953年は、ちょうどアメリカにテレビが普及し始めたころだったらしい。

古くから存在するメディアで活躍する人は、往々にして新しく現れたメディアを批判するものなのかもしれないなと思った。

本作でブラットベリがテレビやラジオを批判しているように、以前ジョージ・オーウェルのエッセイ『一杯のおいしい紅茶』を読んだとき、同じように映画を批判する箇所があった。おそらく当時は映画が発明されて市民に広まりつつある時期だったのだと思う。

しかし今や映画は娯楽でありながら芸術でもあるし、テレビやラジオの存在そのものに批判的な意見を見かけることもない。現代でいえば、インターネットが批判の対象として記憶に新しいかもしれない。10年20年前まで「オタクのもの」みたいな扱いで、一般的じゃないイメージがあったけれど、今ではインターネットを使わない人の方が珍しい。

華氏451度』が映画化されているところから考えると、映画が当たり前に日常にある時代に生きたブラットベリは映画には批判的ではなかったし、今後新しいメディアが発明されても批判→受容という同じ道を辿るのだと思う。小説というメディアでさえ、1700年代?に世間に流通しだしたときは低俗なものみたいな扱いを受けていたと聞いたことがある(あいまいだけど)。いつの世でも変わらんのだな。

 

おわりに

久々にブログ書いてみると、自分が言いたいことが人に伝わるように文章を構成するのってむずかしいと実感。
しょっぱなにあんまり合わなかったと書いたけれど、面白いと感じる部分もあったよ!社会の「速さ」や「加速すること」に対する信奉への皮肉とか。自分は世界の流れの早さに疲れがちでもっとのんびりしてても生きやすくならんかなと思う一方で、2時間越えの映画を長いと感じて観るのを後回しにしてしまったりと、速さ短さ信奉に浸かってもいるから印象的だった。

たしか100分de名著で映画版が面白いと話していたから、そっちも観てみたい。

 

 

 

 

Netflix映画『君の心に刻んだ名前』感想

『君の心に刻んだ名前』は、戒厳令が解かれたばかりの1980年代台湾を舞台にしたLGBTQ映画だ。日本だとNetflix配信のみだが、台湾では去年劇場公開されて国内映画の興行収入で2位にランクインしたらしい。台湾で公開された全作品含めても8位。こういう真面目な映画が好成績をおさめるの、台湾の社会的な成熟度の高さを感じる。

 

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あらすじ

1980年代後半の台湾。ミッション系の高校に通うアハンとバーディは、部活動を通じて意気投合し、親友になった。多くの時を一緒に過ごすにつれて、徐々に二人の想いは友情から恋に変わってゆく。互いの恋愛感情に気づくも、バーディは彼女をつくりアハンを突き放そうとする。気持ちがすれ違ったまま高校を卒業した二人だったが、30年後に恩師の墓参りに訪れたモントリオールで再会する──。

 

総評

1980年代台湾の抑圧的な空気感がリアルで、LGBTQの人にとって当時がいかに生きづらいものだったかが伝わってくる。と同時に十代特有の不安定さ、発散しきれないフラストレーション、バカなことを全力でできる無敵感が生々しく描かれていて、形と湿度が感じられる青春映画でもあった。

本作はアハンとバーディの高校時代と卒業から30年後という2パートに分かれているのだが、なんといってもこの映画のみどころはラスト20分で描かれる30年後のシーンだ。40代後半になった二人が、偶然にふたたび出会う。

 高校時代だけで完結していたら、「昔は今以上に同性愛者が生きづらかったんだな」という感想で終わっていたかもしれない。30年後の描写によって、同性愛への抑圧で当事者の人生を変えてしまう重みと、現在の台湾で同性婚が認められたことへの希望が感じられる。自由があって、社会が進歩するのってすばらしいなと思える終わり方だった。

高校時代編は辛いシーンが多い。つねづねLGBTQをテーマにした映画がやたら別れや死など悲しい結末を迎えることにモヤっているので、途中まではこれもゲイが辛い目に遭う物語か〜って微妙な気持ちになっていた。しかしラスト20分のシーンによってただ悲しいLGBT映画と一線を画して、本作が撮られた意義が分かった。

あとおなじく1980年代が舞台のLGBT映画、『君の名前で僕を呼んで』のオマージュ+批評的な目線を感じられるところがあり、2020年代〜!となった。

 

感想(ネタバレ含む) 


高校時代

 高校時代は辛いシーンが多かったが、息苦しさの中にもそれぞれの青春があるのが描かれていて良かった。アハンとバーディが夜の風に吹かれながらバイクを二人乗りしてはしゃいだり、映画館に忍びこんでスクリーン使って影絵をするシーンは、世界に二人だけのようで眩しくなる。

特に好きなのは、アハンの家でバーディと二人の関係について喧嘩になり、家を飛び出して海に行く場面だ。二人で全裸で海に入ってうおーーーって叫ぶのを遠巻きに撮るショットでは、十代の無限に湧き上がってくる行き場のないフラストレーションを感じる。かと思いきや、砂にまみれて横たわってそっとキスをするシーンには繊細さがある。衝動的だけど繊細な、思春期特有の矛盾した心の動きが一連のシーンに凝縮されていて好き。



君の名前で僕を呼んで』のオマージュ?

高校時代編のラスト、アハンとバーディが電話をするシーンは、『君の名前で僕を呼んで』のオマージュと批評だと感じた。ネットで調べても『君の名前で僕を呼んで』のオマージュを指摘した記事は見つからず、個人の解釈だけど。

君の名前で僕を呼んで』とは、1980年代が舞台のLGBT映画という共通点を持つ。

同作では、大学教授を父に持つ17歳のエリオと、エリオの父の助手をする大学生オリバーの、避暑地イタリアでの恋愛模様が描かれる。ラストは一足先にアメリカに帰ったオリバーが、電話でエリオに別れを告げ、実は付き合っている彼女がいて結婚することを明かす。エリオが暖炉の前で静かに涙を流すシーンでエンドロールが流れる。

二人の関係は避暑地で途切れ、ひと夏の恋となって終わるのだ。私はこの映画はこの映画で好きだが、ラストからは「同性同士の恋愛は若いうちだけ」とか「同性愛は儚いから美しい」みたいな考えを感じて若干モヤモヤした記憶がある。

本作『君の心に刻んだ名前』(タイトルが似ててややこしいな・・・)でも、高校時代編のラストは電話だった。互いに想い合っていても関係を進ませることは叶わないまま、結局その電話が最後の会話となる。涙を流しながら電話をするシーンは『君の名前で僕を呼んで』を連想させる。

しかし本作では電話で別れを告げた場面で物語は終わらずに、アハンとバーディの「その後」の関係が語られる。決してアハンとバーディが抱いた感情を青春時代の淡い1ページや気の迷いとして処理しない態度は、現実に対して誠実だ。

同性愛は気の迷いではないという制作者側からのメッセージは、バーディと結婚したものの結局離婚した女性が、アハンに語る台詞からも見てとれる。

「バーディと離婚してようやく分かった。男の子を好きになるのは生まれつきだって。もっと早く気づいていれば、私の人生も彼の人生も傷つかずに済んだ。」

 

40代になった二人の関係

30年後、40代になった二人は恩師の墓参りに行った先のモントリオールで偶然出会う。アハンがバーで先にバーディを見つけるものの、勇気が出なくて声をかけられない。翌日に同じバーで姿を探すも、バーディは現れない。諦めかけてホテルまでの道を歩いていると、後ろからバーディに声をかけられる。

声をかけられたときのアハンが、みるみるうちに顔がほころんでとても可愛い。二人が会話しながら投げかける視線や動作で、お互いにまだ好きなんだと伝わってくるし、はしゃぎ具合がまるで高校生に戻ったようでほほえましくなる。

二人は高校時代の恋心について語り合うなかで、こんな言葉をこぼす。

「30年後の世界を誰が想像しただろうな。当時は同性愛を認めたら終わりだった」

高校時代の生きづらさを追体験してからのこの台詞は、胸に重くのしかかった。

しかし物語は、昔を嘆くだけで終わらない。選べる未来があり、二人の関係がここからふたたび紡がれることが示唆される。すれ違った30年間を考えて切なくなりつつも、未来に希望を感じられるラストだった。

 

ちょっとモヤる点

あえてひとつ気になる点をあげるならば、主人公二人以外のゲイの登場人物が、主人公の心理面を(ほとんどマイナスの方面に)動かすための装置になっていたこと。

高校の同級生で、ゲイだといじめられていた人物は性に奔放でどこか影があるというステレオタイプ的なキャラだったし、公園で身体の関係を迫ってくるおじいさんも唐突だった。

彼らにも彼らの苦しみがあったはずで、その苦しみを深掘りする時間的な余裕はないにしても、ちょっと一面的だったかなと思う。

 

おわりに

本作を観てあらためて、台湾の民主化ってすごいスピードで進んてきたんだな〜と感心した。1988年には同性愛自体が非合法だったのに、2019年には同性婚が法律で認められるようになった。個人にとって30年という月日は長いけど、社会が変わるスピードとしては目まぐるしい。台湾の歴史に興味が湧いて本を読み始めた。読み終わったら感想書きたい。

 

映画『さんかく窓の外側は夜』感想 ──映像や劇伴は良い!のに・・・

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『さんかく窓の外側は夜』を鑑賞。前に原作を読んで面白かったのと、映画のキャスティングが合ってると思って地味に楽しみにしていた。しかし観た結果は・・・・なんかぼんやりした味わいだったなあという印象。

 

あらすじ

書店で働く三角は、幼い頃から霊が視える体質に悩まされていた。ある日、冷川と名乗る霊媒師が現れ、助手にならないかと誘われる。冷川と親交のある刑事・半澤から持ちこまれた連続殺人事件を調査するうちに、人に呪いをかける女子高生・ヒウラエリカの存在にたどり着く。

 

感想

劇伴や映像、役者さんたちの演技がいい。主題歌も雰囲気に合っていて好き。しかし、少なくない巻数の内容を2時間にまとめようとした結果、改変しなきゃいけない設定や時系列が発生してて、なんかしっくりこなさが否めなかった。

私は漫画や小説を映像化する際に、映画を面白くするためのちょっとした設定変更はアリだと思っている。しかし本作においては、なんでわざわざその改変したんだ?と疑問に感じてしまった。

たとえば、キャラクターの性格。主人公の三角は原作だと、霊を怖がってビビりまくる一方、人に対してはサバサバしている。冷川に対しても感情豊かに言いたいことははっきり言うキャラだったと記憶している(漫画読んだのがけっこう前なのでうろ覚えだが)。ヒウラエリカも少なくとも表面上は、元気で明るいキャラだ。

しかし映画だと、双方とも暗くて陰が強いキャラになっていた。自分の考えはあまり口に出さない。なので特に三角は、強引な冷川に巻き込まれてる感が強かった。

原作がシリアスで不気味なストーリーなのに読みやすいのは、キャラクターの性格に軽快さがあるおかげだと思う。映画でも万人受けする要素になりそうなコミカル部分を、なんであえて取り除いたのだろうか。

あとは登場人物の行動原理が読み取りづらい。信頼関係が深まっていない(ように見える)うちから、パーソナルな部分に踏みこまなきゃいけない事件が起こる。一方的に被害者とは言えないシリアスな過去を持つ冷川に対して、出会ってまもない三角があそこまで受け入れられることに違和感があった。そもそもなぜ三角はかなり怪しい冷川の助手になることを了承して、その後ヤバい一面を垣間見ても一緒にいるのかとかも。

他人を説得したり励ます言葉が妙にロマンティックなのも気になる。映画全体に暗くて冷たい雰囲気が漂っているのに言葉だけが熱を持っていて、宙に浮いているように感じた。

 

おわりに

不満点を書き連ねてしまったが、酷評というよりもったいないという感想である。劇伴や映像、役者さんたちの演技など素材はいいのに。

原因を考えると、やっぱり原作の内容をつめこみすぎてしまったことではないだろうか。結果、逆に原作の空気感から離れて、盛り上がりどころもぼやけてしまったみたいな。

というかこの作品は1話1話区切りのある連ドラの方が向いてる気がする。三角と冷川が様々な心霊事件を解決してゆくバディもの、ぜひ連ドラでやってほしいなー。 

 

 

『脳はすこぶる快楽主義』──パクチーを美味しく感じるかは遺伝子によって決められていた?人体の不思議にせまる科学エッセイ

 

 

 『脳はすこぶる快楽主義』は、東大教授で脳研究者である著者・池谷裕二が、学術論文によって発表された脳や遺伝子にまつわる科学的発見をピックアップして、紹介するエッセイ集だ。「週刊朝日」で連載されているエッセイを抜粋してまとめた一冊。

ひとつひとつの話が3ページと短いので、すきま時間にも読みやすい。自分は読みはじめると止まらなくなってしまい、一気読みしたのだが。著者は毎朝200報くらいの学術論文に目を通すらしく、そのなかから選ばれたよりすぐりの知見ということもあり興味深い内容が多い。

ただ1テーマに3ページと短い分、「その論文だけでそうだって言い切れる?」みたいに根拠が薄く感じてしまうところはいくつかあった。あくまで気軽な科学エッセイとして楽しむべきかもしれない。

たとえば、へえ〜となったのは、人は偽ブランドを身につけると、嘘が増えるという実験結果だ。ノースカロライナ大学のジノ博士の研究で、高級ブランドのサングラスと模造品のサングラスを見せてどちらか選んで買ってもらい、選んだサングラスをかけたまま計算テストをした。

自己採点の結果を口頭で報告してもらったところ、模造品を身につけた人は正規品を身につけた人より、自己採点の結果を虚偽申告する傾向が強かったという。計算テストの実際の正答率が平均6個だったのにたいして、正規品を身につけた人は平均7個、模造品を身につけた人は平均10個と自己申告した。

ちなみに提示したサングラスは、本当はどちらも同じ正規品である。なのでもちろんサングラス自体に仕掛けがあるわけではなく、自己認識の問題となる。もともと本物志向だった人でも、「このサングラスは偽物です」と手渡してかけてもらうと嘘が増えたらしい。

偽物を身につけている意識は、自尊心という認知的ブレーキを外してアバター感覚を生み出すという。「今のわたしは偽物だから、たとえ嘘をついても本当の自分の品位は傷つかない」と考え、モラルの欠けた行動が増える。

この「今の自分は本当の自分ではない」という意識がモラルを低下させる点が、偽ブランドのみならず実生活にも当てはまるのではないかと思って興味深かった。

たとえばネット上で過激な暴言を吐く人は、たいていは実生活では大人しく生活していて、現実でも同じく攻撃的という人はごく少数なはずだ。キャラをつくることで「本当の自分とは違う自分」という認識が生まれ、他人を攻撃するハードルが下がるのかもしれないとか考えた。


もうひとつなるほどと思ったのが、パクチーを刺激臭として感じるか、新鮮な香りとして感じるかは、遺伝子によって決まっているという研究結果だ。自分はパクチーが大の苦手で、山盛りにして食べる人がおよそ信じられなかったのだが、本当に感じ方が違うのだと知って腑に落ちた。

パクチーからカメムシのような刺激臭を感じる人は、人口の14%ほどらしい。意外とマイノリティだったことに驚いた。ちなみに著者はパクチーからカメムシのような刺激臭を感じる側らしいが、むしろカメムシ臭を放つ草を口に含むという一種の自傷行為がたまらなく快感だから食べているという謎の癖を暴露していて笑ってしまった。


紹介される学術論文に知的好奇心をくすぐられる上にエッセイとして面白い。専門的すぎる本は読む時間がないけど人体の不思議に触れてみたいという人は、ぜひ読んでみてほしい。

 

 

2020年に読んで良かった本ベスト5

 

今さらながら、2020年に読んだ52冊の中から良かった本を5つ紹介します!

ジャンルさまざまで順不同に挙げていきます。

 

サピエンス全史

 

 

人類の歴史を紀元前まで遡って読み解き、数ある動植物の中でなぜホモサピエンスが繁栄したのかを探っていく一冊。

人類史って人類の起源まで遡るから膨大かつ複雑だし、色んな切り口で語ることができるゆえに主張に一本筋を通してまとめるのが難しい分野だと思う。その中で本書はわかりやすい文章で網羅的にまとめられていて、さすがベストセラーなだけあった。

ホモサピエンスは神話・貨幣やヒエラルキーなどの共通の「虚構」を信じることで社会共同体を築くことができたという本書を通しての主張は納得のいくものだったし、そうまとめるか!と唸った。

読んでいて気持ち良かったのが、頭の中に浮かんだ疑問が数ページ後にはちゃんと解消される点だ。つまり著者は、読者がどういう疑問を持つかを予測しながら書いている。もしくはその疑問を持つように導かれているのかもしれない。構成力がすごい。

 

自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義

  

自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義

自分の価値を最大にするハーバードの心理学講義

 

 

パーソナリティ心理学の知見を通して、自己理解と他者への理解を深める一冊。

著者のブライアン・リトル教授はパーソナリティ心理学の第一人者であり、本書の中でも科学的根拠に基づいたセルフモニタリングテストがいくつか用意されている。

タイトルが中身の薄い自己啓発書っぽくてあんまり期待していなかったが、良い意味で予想を裏切られた。何が好きでどういうことをしたいのかと悩んでいたときに読み、自己分析の役に立った。

自分が過去に苦しくなった状態が的確に言葉にされていて、もっと早くこの本に出会いたかった・・・となった。自分のなかの「こうあるべき」という価値観の核から自分自身が外れ、自己肯定感が保てずに苦しくなった経験がある人はぜひ読んでみてほしい。

著者は「人は心理テストで描写されるよりもっと繊細で自由な存在だ」と述べていて、本書からは他人を切り捨てない優しさが感じられる。

 

 

マルチ・ポテンシャライト 好きなことを次々と仕事にして、一生食っていく方法 

 

 

やりたいことがたくさんあって困っている人に、ひとつに絞る必要はないと教えてくれる一冊。

「マルチ・ポテンシャライト」という言葉は著者エミリー・ワプニックの造語で、さまざまな分野の趣味・仕事・学問に興味を持って探求する人を指している。

本書ではマルチ・ポテンシャライトを4つのタイプに分け、タイプごとに特徴や向いている人、実在のケースが提示される。

いままでひとつのことを極めるのが立派である風潮を感じていて、自分はやりたいことをひとつに絞れないし途中で飽きちゃうしで中途半端な人間だなあと思っていた。しかし本書で紹介される、分野を飛び移りながら活動する人たちに勇気をもらえたし、そういう生き方でも良いんだと思えた。

重要なのは、紹介されるマルチ・ポテンシャライトの人たちがめちゃくちゃすごい超人ばかりではないことだ。

この人だからできるんだよこの生き方・・・みたいなのだと現実味がないが、そうではないので自分事として考えられた。

 

 

82年生まれ、キム・ジヨン

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

  

数年前に話題になった本だが今まで読んでおらず、映画化するタイミングで手にとった。

普通の女性が現代社会で生きていくうえで感じる、等身大で普遍的な地獄が描かれていた。

キム・ジヨンを担当する精神科医ヒアリングをして書き出したカルテのかたちをとっているので、淡々とキム・ジヨンの生きづらさを追体験することになる。読んでいて苦しかったが、必要な苦しさだった。

本作がきっかけとなって韓国にフェミニズムのムーブメントが押し寄せたことを知り、社会を変えていくためには、不平等を不平等だと認識して訴えるのがとても大切なのだと再認識した。

 

一九八四年 

 

 

全体主義国家が分割統治する世界を描いたディストピア古典小説。

個人的に、コロナの恐怖感や先の見えなさが一番大きかった5月くらいに読んで印象に残っている。暗い気分のときはさらに暗い創作物を摂取するタイプの人間。

5月時点では世界的にポピュリストや独裁的な政権が力を発揮していて、本作の世界観がなんとなく地続きに感じられて身につまされた。

しかし最近ではコロナ対策の不十分さでの混乱やアメリカ大統領選のゴタゴタを経て、ポピュリズムはやっぱり良くないよねって流れになっている気がするので、一九八四年の世界はフィクションの外側には出てこなさそうだ。ゴタゴタへの代償の大きさを考えると安易に良かったとはいえないが・・・。

 

カラマーゾフの兄弟

 

 

今年は自分の中で古典ブームが来ていた。現代まで読み継がれている古典には、読み継がれているだけの理由があることを実感した一作。

人間の根源的なテーマ、作者個人の経験、哲学を織り合わせてみごとなタペストリーを完成させていた。

いつ読んでも、どんな状況で読んでも必ず何かしら共感できるところや思うところが生まれる作品だと思う。

第二部が難しすぎて脱落しそうになったけれど、読み切って良かった。20%も理解できていない気がするが、それでも自分にとって大切な一作になった。

 

おわりに


5冊といいながら6冊になってしまった。

2019年までは、読書といえばもっぱら現代国内小説だった。しかし2019年末に読んだ「FACTFULLNESS」がきっかけとなって、2020年にはノンフィクションもよく読むようになった。

映画好きなので、ノンフィクションを読んで世界情勢に敏感になると映画で描かれている風刺が分かるようになり、分かると面白くてさらに詳しい本が読みたくなる・・・・という映画と本の無限ループにおちいって楽しかった。映画と本のループでためこんだ感想を吐き出したいというのがブログを始めるきっかけにもなったし。

2021年はもうちょい読むスピード上げる&時間増やして年70冊くらい読めるといいな〜。

 

映画『新 感染半島』感想──新年にはマッドマックスゾンビ!

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三が日に『新 感染半島』を鑑賞。ストーリーが重めの前作とは路線がことなり、わりとポップな仕上がりだった。ゾンビ映画好きとしてはゾンビがあまり絡んでこなくて物足りなさを感じたものの、マッドマックスばりの派手なアクションが盛りだくさんでこれぞお正月映画!感があったのが良かった。

 

あらすじ

韓国にゾンビウイルスが蔓延してから4年。香港に亡命した元軍人のジョンソクは、ゾンビから家族を守れなかったことを悔やみ、抜けがらのような日々を送っていた。ある日、ジョンソクを含む4人のもとに、封鎖された韓国に潜入して大金を積んだトラックを運び出す依頼が舞いこむ。足を踏み入れたジョンソクが出会ったのは、荒廃した街にうごめく大量のゾンビと、生き残った狂気的な元軍人の集団・631部隊だった。危機的な状況に追い込まれたジョンソクだったがある家族に助けられ、彼らと脱出を決意する。果たしてジョンソクたちは生き延びることができるのか。

 

感想

前作『新感染』から4年後の世界を舞台にしたゾンビアクションムービーだ。前作とは世界線が同じなだけで物語的なつながりは無いため、本作単体でも観ることができる。

前作のようにゾンビvs人間がメインではなく、人間vs人間の戦いがおもに描かれる。狂気的で粗野な軍団631部隊vsジョンソクと彼を助けてくれた家族である母・ミンジョン、娘・ジュニ、ユジン、おじいさん・キム(彼は血は繋がってない)の戦いだ。

4年もゾンビだらけの世界に身を置いているとその状況に適応するらしく、631部隊はでかい倉庫のような場所にゾンビが入ってこられない牙城を築いている。もともとは民間人を助けるための部隊だったが今では無法地帯だ。

一方の家族側もゴツい車をレーサー顔負けのハンドルさばきで乗り回し、自作のピカピカ光って音が鳴るラジコンでゾンビたちを誘導したりと、環境に適応している。

ゾンビだらけの世界でどのように生き残ってきたかなど、人の描写に重きが置かれていることがわかる。

しかし少し残念だったのは、人の描写が多いわりにはキャラクターの掘り下げが物足りなかったことだ。

全体的にキャラクター像の薄さが気になるうちでも、個人的に特にもっと掘り下げてほしかったのは、敵側631部隊の隊長でありラスボスの、ソ大尉だ。

ソ大尉は631部隊のトップに立つ人物だが地位が形骸化していて、実質的な権限はナンバー2のマッチョな現場担当・ファン軍曹に握られている。ゾンビワールドでの暮らしをそれなりに楽しんでいるファン軍曹やその他の隊員とは異なり、深く絶望して半島からの脱出を強く望んでいる。

影と深みのありそうなキャラ設定なのに、狂気的になった結果の部分しかクローズアップされず、どうやって歪んでいってしまったかは分からないのが勿体なかった。

ソ大尉と軍隊の微妙な関係は、狂気的な631部隊のなかで数少ない人間味のある要素だ。

ソ大尉は物語の重要なシーンに関わってくることだし、なぜ実権を明け渡してしまったのか、狂気的な集団になるのを止められなかったのか、何が絶望を深めていったのかをさらっとでも入れてくれたら敵側にも共感できたと思う。

主人公のジョンソクもなんか影が薄いのよね・・・。もしかしたら家父長制(=631部隊)vs家母長制(=ジョンソクを助けてくれた家族)にする意図があって、母ミンジョンと娘ジュニ、ユジンを目立たせるためにわざと主人公の影を薄くしているのかもしれないけれど。

CG技術はとても良かった。前作から格段に増えただろう予算をしっかり生かして、荒廃した世界が本当にそこにあるような映像に仕上げていた。文明が崩壊した国でゾンビがウワーッと出てくる絵面の迫力はさすがだ。

物足りないポイントを書き連ねてしまったが、気軽に観られるアクション映画としてしっかり面白かった。なんかもう近年の韓国映画すごい作品ありすぎて自分のなかのハードルが高くなっているな・・・。

 

 

『21世紀の啓蒙』──啓蒙主義はいまこそ必要とされている

進化心理学スティーブン・ピンカーによる『21世紀の啓蒙』は、啓蒙主義について21世紀の言葉と概念でふたたび語りなおし、社会は理性と科学によっていかに進歩を遂げてきたかを解き明かす一冊である。

上巻では、そもそも啓蒙主義とはなんなのかについて説明したのち、健康、富、環境問題、暴力などのテーマごとに啓蒙主義の理念に基づいてどのような進化がなされてきたのかを解き明かしていく。

現代に啓蒙主義を語る意義

啓蒙主義の原則は、現代では当たり前すぎてもはや意識しなくなっている。「理性と共感を持つのは社会をより良い場所にするために重要である」という前提を、あらためて考える機会はそうないだろう。

しかし、蛇口をひねればきれいな水が出てくることも、たくさんの病気が薬で治せるようになったのも、権力者をおおやけに批判できるのも、昔からできたわけではなく人類が積み重ねて可能にしてきたことだ。

では、何百年も前から語り尽くされてきた啓蒙主義について、21世紀にふたたび語る意義はなんだろうか。経済学者フリードリヒ・ハイエクの言葉を引用した説明が、その意義を的確にあらわしている。

古くから真実を人々の心(men's mind)にとどめておきたいなら、世代ごとにその言語と概念で語り直さなければならない。かつては最もふさわしい表現だったものも、やがて使い古されて摩耗し、明確な意味を伝えられなくなってしまう。根底にある考えは古びていないかもしれないのに、言葉のほうはそうはいかず、現代にもかかわりのある問題を語るときでさえ、もはや同じ信念を伝えはしない


ピンカーはこの言葉のなかで使われている、men's mindという現代では不適切とされる表現そのものが、図らずも世代ごとにその時代の言葉と概念で語り直さなければならないという主張の正しさを証明していると指摘する。

言葉に付いてくる意味は、時代が進むにつれて脈々と変わるもので、変わっていく意味を押さえつけることはできない。だから意味が変化するたびに語りなおす必要があるのだ。

啓蒙主義獲得へのブレイクスルー

そもそも、人類はどのようにして啓蒙主義の概念を獲得していったのだろうか。最初の大きなブレイクスルーは、「宇宙は目的に満ちている」という直感を打ち破れたことだった。

宇宙は目的に満ちているという前提があると、悪いことが起こったのは何者かがそう望んだからだと思い込んでしまう。事故、病気、飢饉が起こるのは誰かのせいになり、魔女狩りやマイノリティの迫害、神に生贄を捧げる風習が生まれる。

ものごとは状況に起因して起こるのであり、宇宙的な何者かの目標ではないという考えは、現代では当たり前だが啓蒙主義以前には異質であった。

 

環境と進歩の親和性

進歩について書かれたテーマの中で特に興味深かったのは環境問題だ。ここ半年くらいで、日本のメディアでも持続可能な社会の実現について取り上げられはじめた。

直感的には、社会が発展することと環境を守ることは相性が悪いのではないかと思える。しかしピンカーは正しい知識によって、環境問題も社会の発展と両立しながら解決できるという。

国は最初に発展するときは環境より成長を優先させるが、ある程度成長すると環境に目を向けるようになる。だれしも衣食住に不足がないことを前提とするならば、スモッグで汚染された空気よりもきれいな空気を選ぶだろう。

進歩が進むと、より少ない資源から大きなエネルギーを獲得できるようになる。たとえば、品種改良や遺伝子組み換えにより、従来より少ない農地でたくさんの野菜を作れるようになれば、そのぶん空いた農地は自然環境に戻すことができる。

さらにわたしたちは「非物質化」の時代に生きている。技術の進歩により、より少ない資源で物を作れるようになった。目覚まし時計、電話、タイマーなど以前なら個々の物だった機能が、いまではスマートフォンに集約されている。

非物質化が進んでひとつのデバイスに機能が集約されるようになればなるほど、その分のプラスチックや紙などの資源が節約できる。

このように、豊かになってテクノロジーが発展すると、世界は土地や物を手放す。また豊かになって教育が高水準になるほど、環境への関心が高くなる。

とはいえもちろん、問題がひとりでに解決するわけではない。地球温暖化が進んでいる事実を否定したり、「どうしたって地球温暖化は進む」と悲観するのではなく、科学に投資したり世界が協調して環境に関する規制を作ることが、具体的な解決につながるのだ。

 

おわりに

以前読んだピンカーの前著『暴力の人類史』と、類似している内容もあった。だが本書の方が、ボリューム・主張のまとめかた共に読みやすくなっているしデータも新しいのでおすすめだ。

また現代社会に対して悲観的になるのではなく、進歩を成し遂げた面を見ることが正しい現状把握につながるというコンセプトの本書は、ハンス・ロスリング著『FACTFULLNESS』とのつながりを感じた。実際にハンス・ロスリングの研究データを引用している章もある。

ニュースで伝えられるのはおもに短期的に起こる悪いできごとであり、持続的な良いできごとは新聞の一面を飾らないことを心に留めておくのは、思考が過度に偏らないためにも、精神衛生的にも役に立ちそうだ。