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Netflix映画『君の心に刻んだ名前』感想

『君の心に刻んだ名前』は、戒厳令が解かれたばかりの1980年代台湾を舞台にしたLGBTQ映画だ。日本だとNetflix配信のみだが、台湾では去年劇場公開されて国内映画の興行収入で2位にランクインしたらしい。台湾で公開された全作品含めても8位。こういう真面目な映画が好成績をおさめるの、台湾の社会的な成熟度の高さを感じる。

 

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あらすじ

1980年代後半の台湾。ミッション系の高校に通うアハンとバーディは、部活動を通じて意気投合し、親友になった。多くの時を一緒に過ごすにつれて、徐々に二人の想いは友情から恋に変わってゆく。互いの恋愛感情に気づくも、バーディは彼女をつくりアハンを突き放そうとする。気持ちがすれ違ったまま高校を卒業した二人だったが、30年後に恩師の墓参りに訪れたモントリオールで再会する──。

 

総評

1980年代台湾の抑圧的な空気感がリアルで、LGBTQの人にとって当時がいかに生きづらいものだったかが伝わってくる。と同時に十代特有の不安定さ、発散しきれないフラストレーション、バカなことを全力でできる無敵感が生々しく描かれていて、形と湿度が感じられる青春映画でもあった。

本作はアハンとバーディの高校時代と卒業から30年後という2パートに分かれているのだが、なんといってもこの映画のみどころはラスト20分で描かれる30年後のシーンだ。40代後半になった二人が、偶然にふたたび出会う。

 高校時代だけで完結していたら、「昔は今以上に同性愛者が生きづらかったんだな」という感想で終わっていたかもしれない。30年後の描写によって、同性愛への抑圧で当事者の人生を変えてしまう重みと、現在の台湾で同性婚が認められたことへの希望が感じられる。自由があって、社会が進歩するのってすばらしいなと思える終わり方だった。

高校時代編は辛いシーンが多い。つねづねLGBTQをテーマにした映画がやたら別れや死など悲しい結末を迎えることにモヤっているので、途中まではこれもゲイが辛い目に遭う物語か〜って微妙な気持ちになっていた。しかしラスト20分のシーンによってただ悲しいLGBT映画と一線を画して、本作が撮られた意義が分かった。

あとおなじく1980年代が舞台のLGBT映画、『君の名前で僕を呼んで』のオマージュ+批評的な目線を感じられるところがあり、2020年代〜!となった。

 

感想(ネタバレ含む) 


高校時代

 高校時代は辛いシーンが多かったが、息苦しさの中にもそれぞれの青春があるのが描かれていて良かった。アハンとバーディが夜の風に吹かれながらバイクを二人乗りしてはしゃいだり、映画館に忍びこんでスクリーン使って影絵をするシーンは、世界に二人だけのようで眩しくなる。

特に好きなのは、アハンの家でバーディと二人の関係について喧嘩になり、家を飛び出して海に行く場面だ。二人で全裸で海に入ってうおーーーって叫ぶのを遠巻きに撮るショットでは、十代の無限に湧き上がってくる行き場のないフラストレーションを感じる。かと思いきや、砂にまみれて横たわってそっとキスをするシーンには繊細さがある。衝動的だけど繊細な、思春期特有の矛盾した心の動きが一連のシーンに凝縮されていて好き。



君の名前で僕を呼んで』のオマージュ?

高校時代編のラスト、アハンとバーディが電話をするシーンは、『君の名前で僕を呼んで』のオマージュと批評だと感じた。ネットで調べても『君の名前で僕を呼んで』のオマージュを指摘した記事は見つからず、個人の解釈だけど。

君の名前で僕を呼んで』とは、1980年代が舞台のLGBT映画という共通点を持つ。

同作では、大学教授を父に持つ17歳のエリオと、エリオの父の助手をする大学生オリバーの、避暑地イタリアでの恋愛模様が描かれる。ラストは一足先にアメリカに帰ったオリバーが、電話でエリオに別れを告げ、実は付き合っている彼女がいて結婚することを明かす。エリオが暖炉の前で静かに涙を流すシーンでエンドロールが流れる。

二人の関係は避暑地で途切れ、ひと夏の恋となって終わるのだ。私はこの映画はこの映画で好きだが、ラストからは「同性同士の恋愛は若いうちだけ」とか「同性愛は儚いから美しい」みたいな考えを感じて若干モヤモヤした記憶がある。

本作『君の心に刻んだ名前』(タイトルが似ててややこしいな・・・)でも、高校時代編のラストは電話だった。互いに想い合っていても関係を進ませることは叶わないまま、結局その電話が最後の会話となる。涙を流しながら電話をするシーンは『君の名前で僕を呼んで』を連想させる。

しかし本作では電話で別れを告げた場面で物語は終わらずに、アハンとバーディの「その後」の関係が語られる。決してアハンとバーディが抱いた感情を青春時代の淡い1ページや気の迷いとして処理しない態度は、現実に対して誠実だ。

同性愛は気の迷いではないという制作者側からのメッセージは、バーディと結婚したものの結局離婚した女性が、アハンに語る台詞からも見てとれる。

「バーディと離婚してようやく分かった。男の子を好きになるのは生まれつきだって。もっと早く気づいていれば、私の人生も彼の人生も傷つかずに済んだ。」

 

40代になった二人の関係

30年後、40代になった二人は恩師の墓参りに行った先のモントリオールで偶然出会う。アハンがバーで先にバーディを見つけるものの、勇気が出なくて声をかけられない。翌日に同じバーで姿を探すも、バーディは現れない。諦めかけてホテルまでの道を歩いていると、後ろからバーディに声をかけられる。

声をかけられたときのアハンが、みるみるうちに顔がほころんでとても可愛い。二人が会話しながら投げかける視線や動作で、お互いにまだ好きなんだと伝わってくるし、はしゃぎ具合がまるで高校生に戻ったようでほほえましくなる。

二人は高校時代の恋心について語り合うなかで、こんな言葉をこぼす。

「30年後の世界を誰が想像しただろうな。当時は同性愛を認めたら終わりだった」

高校時代の生きづらさを追体験してからのこの台詞は、胸に重くのしかかった。

しかし物語は、昔を嘆くだけで終わらない。選べる未来があり、二人の関係がここからふたたび紡がれることが示唆される。すれ違った30年間を考えて切なくなりつつも、未来に希望を感じられるラストだった。

 

ちょっとモヤる点

あえてひとつ気になる点をあげるならば、主人公二人以外のゲイの登場人物が、主人公の心理面を(ほとんどマイナスの方面に)動かすための装置になっていたこと。

高校の同級生で、ゲイだといじめられていた人物は性に奔放でどこか影があるというステレオタイプ的なキャラだったし、公園で身体の関係を迫ってくるおじいさんも唐突だった。

彼らにも彼らの苦しみがあったはずで、その苦しみを深掘りする時間的な余裕はないにしても、ちょっと一面的だったかなと思う。

 

おわりに

本作を観てあらためて、台湾の民主化ってすごいスピードで進んてきたんだな〜と感心した。1988年には同性愛自体が非合法だったのに、2019年には同性婚が法律で認められるようになった。個人にとって30年という月日は長いけど、社会が変わるスピードとしては目まぐるしい。台湾の歴史に興味が湧いて本を読み始めた。読み終わったら感想書きたい。