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映画『燃ゆる女の肖像』──視線と伏線で語られる関係性

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『燃ゆる女の肖像』を鑑賞。これはすごいものを見た・・・。数多くのモチーフ、対比が物語に織り込まれている上で、全てがバラバラになることなく繋がって意味を成している。綿密に計算された配置に圧倒されっぱなしだった。まだ2020年に観た映画ベスト10は考えていないけど、間違いなく1、2を争う作品だ。

 

あらすじ

18世紀フランス。画家のマリアンヌは孤島に住む貴婦人から、娘・エロイーズの見合いのための肖像画を描いてほしいと頼まれる。しかし、エロイーズは結婚を拒んでいるため、肖像画を描くという目的を隠して接さなければならなかった。散歩相手として交流を深め、互いの内面を知るうちに二人は恋に落ちる。肖像画は刻々と仕上がってゆくものの、完成は別れを意味するのであった──。

  

視線の応酬

互いに向ける視線が印象的だ。視線によって、関係性の変化を見事に浮かび上がらせている。出会って始めのころは、マリアンヌは肖像画を描く目的のために、エロイーズをチラチラと盗み見る。エロイーズは横顔に注がれる視線を受けて、なぜ自分を見るのかと訝しげだ。会話をするときにも二人はまっすぐ目を見ない。関係が深まるにつれて、互いに投げかける視線が柔らかくなり、次第に熱がこもりはじめる。

マリアンヌはエロイーズへの気持ちが募ってゆくと、肖像画を描くという目的を隠しているのが心苦しくなり、ついに打ち明ける。エロイーズはショックを受けたものの、意外や肖像画のモデルになるという。

マリアンヌが肖像画のモデル側の場所にいるエロイーズのもとへ行き、モデル側から画家のことがよく見えると教えられてうろたえるシーンは、見る/見られるの関係を鮮やかに描き出している。画家であるマリアンヌが一方的にモデルであるエロイーズを見ているかと思いきや、実は逆もしかりであり、見る/見られるは表裏一体という。とても重要なシーンなのに、インターネットに浸かっているせいで「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを覗いているのだ・・・」ってナレーションが頭の中に流れた。

  

歴史の外側の人

本作は徹底して歴史から忘れ去られた人を描く姿勢が取られている。主人公であるエロイーズは18世紀の女性画家だ。何百年前に活躍していた西洋の画家といえば、ぱっと頭に浮かぶのは男性ばかりで、女性画家はあまりイメージがない。だが、実際に18世紀のフランスでは、多くの女性が絵を描くことを職業としていたらしい。しかし、現在まで名前が残っている人は男性画家とは比べ物にならないくらい少ない。

また、もう一人の主人公・エロイーズは貴族の娘でありながらも階級社会に馴染まない。見合いをすることになるまで修道院にいた彼女は、修道院では皆が平等なところが好きだという。

平等を好む姿勢は、行動に現れている。エロイーズは、母が用事で本土に出かけて不在になってからは、マリアンヌだけでなく従者であるソフィーとも対等な関係を見せる。三人で一緒にご飯を食べるし、ときには従者のソフィではなくエロイーズがご飯を作ったりもする。また、ソフィーが堕胎をするために薬が必要になったときには、マリアンヌとエロイーズは草木をかき分けて薬草を採る。友達と言われても違和感がない関係だ。

貴族と従者の間に友情が芽生える作品はあれど、あくまで立場の違いを前提としたものが多かったように思う。しかし、当時の社会でもエロイーズのように生まれながらの格差に馴染まない人はいたのではないかと考えさせられる。

 

対比の考察(細部ネタバレ)

本作は数多くの対比がなされている。しかも意味の薄い対比が詰め込まれているわけではなく、ちゃんと作品のテーマに沿ったものになっている。たとえば、「音」に関する対比だ。本作は劇伴がほとんど使われておらず、音といえば基本的には波の音・暖炉の焚き火の音である。

しかし、三つだけ音楽が使われている場面がある。最初に劇伴が使われるのは、見合いでミラノへ行くことを不安がるエロイーズのために、マリアンヌがオルガンで好きな曲を弾く場面だ。個人的に、二人はある明確な瞬間に恋に落ちたというよりも、グラデーションのようにいくつもの出来事が重なって恋に変化していったと考えている。しかしあえて挙げるとするならば、オルガンを弾く場面は、二人がただの散歩仲間ではなくなった転換点だろう。

残りの二つは、祭りの場面とラストショットであり、どちらも二人の関係の変化において重要なシーンだ。水や火の音という原初的な音が物語を占めているからこそ、オルガンや祭りでの歌という文化的な音が二人の関係の変化を位置づけるものとして際立つ。基本的に静寂に包まれて進行する物語のなかで二人の恋が過熱してゆくさまは、外側の静けさ/内なる感情の激しさ の対比ともいえる。

他には、二人で幸せな夜を過ごした翌朝にエロイーズの母が本土から帰ってきたため、裸だったエロイーズがマリアンヌに「コルセットを締めて」と頼むシーンがある。これは、裸/服(コルセット)の対比であり、自由/抑圧の象徴だろう。それ以外にもきっとまだまだ気付いていない対比がたくさんある。


モチーフの考察 (細部ネタバレ)

モチーフが伏線として精巧に張り巡らされ、ここぞというタイミングできれいに回収される。手法とタイミングが華麗で見ていて気持ちが良い。

例えば、マリアンヌはエロイーズと恋仲になって甘いひとときを過ごす間、夜になるとたびたび暗がりに白いドレスを着たエロイーズの幻影を見る。暗闇に浮かび上がるエロイーズの姿は、幻想的で美しくもどこか悲しさがある。幸福のさなかに落とされる違和感である。そしてマリアンヌが本土に帰るシーンで、幻影が現実のものとなる。幻影はいつか来る別れを表していた。

また、マリアンヌ、エロイーズ、ソフィの三人は台所に集まって詩を朗読し、内容について議論をする。詩はギリシャ神話のもので、妻を取り戻すためには妻の方を振り返ってはならないと言われていたのに、振り返ってしまって二度と会えなかったというものだった。この詩が終盤の二人の関係と重なる。

タイトルの回収と思われるシーンもあった。マリアンヌの前に来た画家が描いた、顔がないエロイーズの肖像画を、マリアンヌは夜にろうそくで照らしながら観察する。すると、ろうそくの火をキャンバスに近づけすぎて絵に燃え移ってしまう。火が燃え移ったのはエロイーズの心臓の部分だった。

本作の英題は「Portrait of a Lady on Fire」であり、“on Fire“には“燃える”という意味のほかに“(恋などが)盛り上がる”という意味もあるらしい。文字通り、ハートに火が着いたということになる。肖像画が燃えている状況と、恋が燃え上がる状態のダブルミーニングだ。ただ、原題はフランス語で「Portrait de la jeune fille en feu」であり、そちらにもダブルミーニングがあるか調べてもいまいち確証がなかった。このシーンは、数々の暗喩が見事にあちこちに埋め込まれているなかで、際立ってド直球ストレートでちょっと面白かった。

 

さいごに

 本作は、美術学校で教員として働くマリアンヌの生徒が見つけた一枚の絵から、過去にさかのぼるかたちではじまる。最初に「姉の死」や「前に来た別の画家」というミステリー要素が提示され、漂う不協和音に一気に引き込まれる。そこからはもう、視線の応酬や張り巡らされた伏線を見逃したくなくてスクリーンから目が離せなかった。音楽がほとんどなくて画面の動きも少ないのに、飽きることのない怒涛の2時間。

ストーリーの面では、タブー視されているともいえる堕胎をあんな風に描くのとか、社会的立場にかかわらない女性たちの連帯とか、18世紀の話なのに生々しさを感じられて何重にもすごい。

生徒が見つけたあの絵を、マリアンヌはいつ描いたのだろう。作中に描いているシーンはなかったはず。孤島で二人の幸せな時間を過ごしているときだろうか、それとも帰ってきてからやるせなさや喪失を込めて描いたのだろうか。