部屋の隅で映画と本

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映画と本の感想ブログ

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『持続可能な魂の利用』──ある日「おじさん」が見えなくなったらどうなる?

少女たちから「おじさん」が見えなくなったら、社会はどうなるのか?松田青子による『持続可能な魂の利用』は、ある日突然少女たちの目の前から「おじさん」が消えた世界を描いた小説だ。

本書では、「おじさん」が見えなくなった未来で、「おじさん」が見えていた時代を研究して発表する少女たちと、「おじさん」が見えている現代を生きる女性という2つの視点で交互に進められる。

「おじさん」が牛耳る現代を生きる女性がメインとして描かれ、「おじさん」が見えなくなった未来の世界はある種ユートピア的に語られる。

未来の視点では、「おじさん」のいない未来から現代を見つめることで、渦中にいると当たり前になってしまっている「おじさん」が支配する社会の異常さを、ちょっと離れた位置から認識することができる。

ここで気をつけておきたいのは、本書でいう「おじさん」とは、ある一定の年齢以上の男性を指すのはない。「おじさん」とは、意識的・無意識的に関わらずセクハラパワハラをするなど他者の尊厳を軽んじる人の総称である。だから若い男性でも、歳を重ねた女性であっても、他者を軽んじ、見下す人は「おじさん」であり、見えなくなる。なのでカッコ付きの「おじさん」だ。

ちなみに見えなくなるというのは、存在が消えてしまうわけではなく透明になる。少女たちと透明な「おじさん」が共同の社会を生きるのは難しいとして、少女たちは隔離されて、少女たちだけの社会を営むことになる。


現代編の中でも様々な女性の視点から語られるのだが、その中でも「おじさん」が支配する社会で生きづらさを感じている女性が、アイドルにハマる話が面白かった。作中ではアイドルのグループ名と名前は伏せ字になっているが、まあ特徴から言って欅坂の平手友梨奈を連想させる。

その女性は、アイドルグループは「おじさん」が作ったと思っていて、構造に問題があるとも考えているのに、平手(原文だと伏せ字でxx)から目を離せない。きっと現実でも今までアイドルは好きになれなかったけど平手友梨奈にはハマったという人はたくさんいるだろう。

自分は今のところアイドルにハマったことは無いが、ハマったら同じような苦悩を抱えると思う。個人的には作中の折り合いの付け方に納得がいったか微妙なところだが、構造を批判することと、その中で活動する個人をどう思うかは別物だとはさらに思うようになった。

そのグループが好きだから手放しで受け入れるのではなく、おかしくない?と思うことがあったら発信していくファンが増えれば、おのずと変わっていくのかもしれないなとも思った。まあそれはアイドル以外にも言えることだけど。個人的には恋愛禁止や「卒業」の文化がどうなん?ってずっと思っているのだが、アイドルファン的にはどうなんだろう?


あと印象深かったのは、元アイドルで現在は派遣の会社員をしている女性が、美少女アニメにハマる話。

その女性はアイドル時代に、ファンが書いた自分とそのファンの性行為を含む夢小説をネットで見てしまう。小説のURLが彼女のブログのコメント欄に貼り付けられていて、そうとは知らず開いてしまったのだ。

会社員になった彼女は好きな美少女アニメを観ていると、あのとき夢小説を書いたファンと同じ視線を持っている自分に気がつく。次の一節が印象に残っている。

アニメを見ているとき、真奈は、「ぼく」と同じ視線をしている自分に時々気付かされる。その視線を持つ権利を、ファンの特権を、真奈はずっと欲していた。魔法少女の健やかな美しさを、デフォルメされた肉体を、いつまでも目に焼きつけていたかった。エロい、と無邪気にほくそ笑んでいたかった。自分に肉体があることを忘れ、見る側に徹していたかった。


思うのは、純粋に美少女アニメが好きって気持ちはもちろんあるが、エロい、とほくそ笑む行為には行き場のない復讐心が含まれているのではないかということだ。客体化され、視線の暴力にさらされた経験がなかったら、美少女アニメにハマったとしても「エロい、と無邪気にほくそ笑む」のをしたいと思うことはなかったのではないだろうか。


おわりに

本作は「おじさん」が見えなくなった未来の社会でどういう変化が起きたかよりも、「おじさん」がいない社会を提示することで現在の支配構造に疑問を投げかけるものであった。

それはそれでとても良かったのだが、少女たちから「おじさん」が見えなくなるという設定がすでに面白く、どんな社会なのかという部分ももっと知りたかった。その世界で人々が何を考え、どんな生活が営まれて、どういう自由を獲得したのか気になる。「おじさん」が消えるSF、ジャンルとして確立しないかな・・・・。

 

 



今週のお題「読書の秋」

 

『坊っちゃん』──勧善懲悪みの強い夏目漱石の初期作

 

坊っちゃん』は、夏目漱石による二作目の小説だ。名の知られた作品が多い彼の著作の中でも、おそらく一、ニを争う有名な作品だろう。

自分が読んだ夏目漱石の小説はこれで三冊目。『こころ』『彼岸過迄』を読んでかなり好きだと気づき、次は代表作(有名すぎてどれが代表作かという感じだが)を読んでみようと本書を手に取った。

いままで読んだ漱石作品のなかでいちばん読みやすくて笑えたが、作風がまったく違くて驚いた。本当に同じ作者か!?と思うくらい。自分にとっては他に読んだ『こころ』や『彼岸過迄』ように、登場人物に共感するタイプの作品ではなかったかな。


本書は有名な出だしの一文「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」が表すように、無鉄砲な主人公の坊っちゃんが東京から田舎の中学校に教師として赴任した先で、生徒や同僚とのトラブルに直面して持ち前の正義感に突きうごがされていく話だ。

文章は軽快で勢いがあり、明治期の作品とは思えないくらいすらすらと読むことができた。坊っちゃんが自分の信じる正義を貫きとおす姿がテンポ良く一人称で語られる。あまりに不器用に真っ直ぐすぎる坊っちゃんの行動は、可笑しみがあって笑える。

良くも悪くも勧善懲悪の感じが強かった。坊ちゃんが対峙することになる赤シャツと野だいこ(同じ学校の教頭と同僚の教師)は、彼の目線から見るとめちゃくちゃ嫌な奴に見える。

が、現実に照らし合わせればどちらも極悪人というわけではなく、世の中をうまく渡るずるい大人くらいな感じだろう。

普通ならこちらが我慢してしまうところを、坊っちゃんは真正面からずるい大人と戦おうとする。だからこそ笑えるし、赤シャツと野だいこが懲らしめられたときには、すっきりした気持ちになる。


無鉄砲で正義感の強い主人公が理屈をこねくりまわす嫌な奴を倒して終わり!!というだけの物語ではなく、最後には「勝った」のは坊っちゃんなのか?と考えさせられるのが良かった。

娯楽色の強い作品でも、しっかりと余韻を残すのはさすがといったところだ。


おわりに

後期作からいきなり初期作に飛んだから、文章のギャップがすごくて面白かった。比較的短い物語で楽しく読めるので、初めて漱石の小説を読む人にもオススメ。

夏目漱石は前期の作品では同時代への嫌悪感をユーモラスに語り、後期になるとエゴイズムと不信をかかえて葛藤する個人を描く作風になるらしい。

自分はもしかしたら後期作の方が好きなのかもしれない。次はそっちを読んでみよう。

好きな物は後に取っておくタイプの人間だからか、夏目漱石の小説が好きだと気づいてからなんだか読むのがもったいなくなってしまっている。

作品数が割とあるからすぐには読み終わらないだろうし、普通に読みたいやつは早く読んだ方が良いと分かっているんだけど・・・・。

 

 

 

『大学4年間の社会学が10時間でざっと学べる』──レジュメのような読感だが一冊目には良いかも?

『大学4年間の社会学が10時間でざっと学べる』は、題名のとおり大学で学ぶ内容の社会学についてざっと解説する一冊だ。

以前『100分de名著』で社会学ブルデューの『ディスタンクシオン』という本が紹介された回がとても面白くて、社会学ってどんな学問なんだろうというのを知りたくて手に取った。

初めて◯時間で学べる系を読んでみたが、やはり○時間で学ぶのってムリがあるよな〜というのが正直な感想。

本書は社会学で使われる単語を、その単語ごとに1ページ使って説明する構成になっている。テスト前に見返すようなレジュメや教科書に近い感覚だった。

本を読む行為特有の楽しさはあまり感じられず、自分には向いていなかったな。

ただ題名に偽りはないし、○時間で学べる系に共通する難しさだと思うのでこの本がどうとかいう話ではない。むしろ本書についていえば、なるべく分かりやすく興味を持ってもらえるように説明しようという作者の努力を感じられた。

自分のように読むことを楽しみたい人よりも、本を読むのに時間は取れないけど、ちょっと興味がある・何かでその分野の基本的な知識が必要という人を対象としているのかもしれない。


自分には向いていなかったと思う反面、今後社会学に関連する本を読む機会があったら、本書で基礎の単語を学んだことにより理解がスムーズになるだろうし、一冊目に選ぶのは悪くないかもとも思う。

あと、社会学って実際何をやっているのかが分かりにくいと思っていたから、その輪郭が少しはっきりしたのが良かった。

社会学は「理解」と「説明」という対になる概念で成り立っているという。「理解」は人の主観的な内面世界を感情移入や追体験によって明らかにするもので、他者の主観的世界を理解する。もうひとつの「説明」は、対象を突き放して見ることで、社会現象をよりよく説明することを目指す。

まあそうはいってもやはり抽象的で分かりにくいから、具体的にどういうことをやっているのか知りたいと思ったら一つひとつの事柄をもっと深く説明してくれる本を読む必要があるけれど。


おわりに

やっぱり自分が興味のある本を読むのが良いと思うし、『ディスタンクシオン』に手をつけるか。でもどこかですごい難しいって評を見たし、戦々恐々だな〜。と、うだうだしているうちにそろそろ一年が経ちます‥‥。

 

 

 

『シラノ・ド・ベルジュラック』──ラブレター代筆系物語の元祖

 

エドモン・ロスタンによる『シラノ・ド・ベルジュラック』は、1897年にパリで初演を迎え、以降現在にいたるまで世界中で上演されている戯曲である。

去年秋にシラノ・ド・ベルジュラックの作者であるロスタンを主人公にした、『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』という映画を観たのがきっかけで初めて戯曲を手に取った。

創作において鉄板である、ラブレターの代筆を頼まれ、代わりに手紙のやりとりをするうちに関係性が変化する・・・・というストーリー展開の元ネタがこの『シラノ・ド・ベルジュラック』だと知り、がぜん興味が湧いた。

最近のラブレター代筆系映画といえば、ネットフリックスで配信されている『ハーフ・オブ・イット』だ。現代ではもうラブレター代筆という題材が擦られまくったのと、ラブレターで告白するというシチュエーションの現実味が薄くてなかなか制作が難しそうであるが、うまく現代的にアレンジして成功していた。

自分が本書を読んだのはもう10ヶ月近く前のことなのだが、は2020年は『ハーフ・オブ・イット』と『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』の他に、NTVの『シラノ・ド・ベルジュラック』(イギリスで上演された演劇を映画館で流す企画)も年末に上映していて、なぜか去年の日本はシラノイヤーだった。


物語は、鼻が大きくてモテないが美しい詩を書く才能がある軍人シラノ、イケメンだが軽薄で詩の才能はないクリスチャン、美しく気品のあるロクサーヌが繰り広げる三角関係だ。少女漫画の古典か?と思うくらい馴染みのある人物関係の設定。

クリスチャンはロクサーヌに恋するものの、詩の才能がないためシラノに手紙の代筆を頼む。当時はいかにロマンチックで詩的なことを言えるかがとても大事であり、イケメンなだけでは恋愛関係をうまく運ぶのは難しいようだ。

シラノもロクサーヌが好きなのだが、肝心のロクサーヌの方はクリスチャンが気になっていると知り、二人の恋を成就させるために代筆を引き受ける。

最初は3人とも外見の美しさに熱を上げるライトな恋愛関係だ。しかし物語が進むにつれて相手の内面を愛しはじめる者、やっぱり外側だけを見て軽い恋愛がしたい者と、差が出てくるのが面白い。

物語的な面白さは第四幕が一番だった。クリスチャンは、ロクサーヌが自分ではなくシラノを愛しているのだと悟る。

クリスチャンは悟ったのちに、気付かぬふりしてそのままロクサーヌと関係を進めたり、うまく事を運べなかったシラノに怒ったりするのではなく、ロクサーヌが愛しているのはあなただとシラノに伝える。当て馬役が最後に良いやつになって退場するという概念としての少女漫画ムーブ・・・・。

夜の暗闇のなかバルコニーで、クリスチャンの代わりをしたシラノがロクサーヌに美しい愛の詩をならべる名シーンは、切なくロマンチック。実際に劇で観たらテンションあがっちゃうだろうな。

 

 

 


映画『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』はこちら。全く『シラノ・ド・ベルジュラック』を知らない状態で観たがドタバタ劇として面白かった

 

 

『台湾物語: 「麗しの島」の過去・現在・未来』──台湾愛を感じる一冊

 

『台湾物語』は、近現代台湾の歴史、言語、文化、宗教など、さまざまな方面から台湾を語る一冊だ。なんとなく小説っぽさもあるタイトルだけど新書の本である。

文章が固くなくて、とてもソフトな読み心地なのが印象的だった。近代中国の文学には「雑文」というジャンルがあるという。「雑な文」という意味ではなく、叙情性をそなえた文章を指す。

本書はその雑文の形式で書かれていて、評論ともエッセイともつかない独特の語り口だ。


基本的な台湾事情について勉強不足だった自分にとって、近現代史が一番興味深かかった。

台湾は1945年まで日本の統治下にあり、敗戦によって中国に引き渡された。今では歴史として認識されているが、当時を生きている人にしてみれば青天の霹靂だった。

昨日まで日本人として日本語を話すように教育されていたのに、今日からは中国人として中国語で話すように指導される。日本統治時代には社会的地位の高い職に就いていた人が、中国語ができないという理由で左遷されてしまうこともあったようだ。

さらに世代によって身近な文化、政治、言語がまるきり違うため、家族間で意思疎通がうまくできないこともあったという。すごい激動だ。。。


中国での内戦に敗れた国民党が台湾になだれ込んできてからは、蒋介石親子による独裁が1988年まで続いた。その間は戒厳令が敷かれていた。

驚いたのは、戒厳令が敷かれているあいだ、学校では、歴史は中国の歴史、地理は中国の地理のみが教えられたということだ。

台湾の言葉、台湾の歴史、台湾の地理を子どもたちに教えられるようになったのは、1997年あたりのことだったらしい。20年ちょっと前まで、自分が住んでいるところについて教えられていなかったとは。


台湾の民主化に際しては、李登輝がキーマンになった。蒋介石親子死去後の大統領だ。それまでの独裁を謝罪をして、学生運動に背中を押されつつ民主化を推し進めた。

台湾ではこの民主化運動の成功体験が現在まで受け継がれ、いまでも運動がさかんらしい。

若い世代が政治に関心を持ち、平和的なデモに参加して意思表示する習慣があるっていうのが、自浄作用がありイケてる国になってる理由のひとつかなーと思ったりした。


本書を読むまでは、現代では台湾の人はみんな中国に呑み込まれたくないのだろうと考えていたのだけど、そう単純な話でもないらしい。統一推進派の人、現状維持の人、独立派の人とさまざまである。

統一に賛成する人の中にも、政治的立場からだったり、中国マネーに恩恵を受けているからだったりと、いろんな理由がある。考えてみたらそりゃ一筋縄ではいかないよね。

 

おわりに

著者は大学教授のかたわら中国、香港、台湾のメディアで文章を書く仕事もしているらしく、リアルな中華圏の事情にも詳しい人物のようだ。表面的な部分だけではなく、歴史や文化などをさまざまな角度から検分した上で、心から台湾を愛しているのだろうなというのが読んでいて伝わってきた。

最近ちょくちょくヨーロッパだったり色んな国の歴史の本を読んでいるのだけど、歴史って現代に繋がってるんだなーと実感する。当たり前だけどなんか不思議でもある。

 

 

 

『彼岸過迄』──結論が与えられない物語の美しさ

彼岸過迄』は、夏目漱石の後期三部作と言われるうちの一冊だ。

実は高校を卒業したころに買ったきり、しばらく本棚の肥やしにやっていた。高校の教科書に載っていた『こころ』が好きで、別作品も読んでみようと思って買ったのだと記憶している。

しかし、もともと『こころ』を好きになった動機が不純であり(「先生」と主人公の関係にときめいていた・・・・)、本書にも勝手に萌え要素を期待して勝手に裏切られ、最初の数十ページで止まったままになっていた。なのでかなりしばらくぶりに、ふたたび開いたことになる。


本作は、大学を卒業したばかりでまだ働き口を見つけていない敬太郎が、同じ下宿先の森本や、大学の友人である須永の話を聞き、人生の片鱗を垣間見るというストーリーだ。

特徴的なのは、登場人物の悩みやいざこざが何も解決しないし、出来事の結論も与えられないということ。本作の大部分を占めるのは、主人公であり傍観者の敬太郎の友人である、須永という内向的で裕福な家の青年と、千代子という須永の従姉妹との恋愛問題である。

須永は、千代子のことが好きなのか好きではないのか、自分の気持ちが分からない。なのに千代子が他の男と一緒にいるのを見ると、嫉妬をしてしまうということに苦しんでいる。

千代子は須永のことを悪からず思っているが、同時に煮え切らない態度の須永を軽蔑してもいる。明治時代の名家の話なので、恋愛関係は二人だけの問題ではなく、親族もいろいろな思惑を抱えている。

二人の関係は、進むも地獄で進まぬも地獄という泥沼にはまって抜け出すすべがない。しかし、最後まで二人は結婚したのか、しないのかは語られない。主人公・敬太郎自身が二人の関係に首を突っ込んでどうにかするようなことはないし、物語はあくまで敬太郎が聞いた断片を通してしか知りえない。

読み終わって「結局須永と千代子の関係はどうなったのか」という部分が気にならないというのは嘘になるが、他人の人生の断片を聞くってそういうものだよなと妙に納得もしてしまう。

人によっては須永の態度にイライラするかもしれない(笑)。私はむしろ須永の煮え切らなさや、考えばかりが先行して行動がともなわないところに共感してしまったが。

おわりに

今読むとすごく好きな作品だった。多分、本書を買った高校卒業時に読んでもよく分からなかったと思う。

内面の動きについて共感できるだけではなく、質感を感じられる。たいてい古典を読むときって、その時代に起きていることを遠い場所から覗いているような気持ちになるのだが、本作は現在起きていることを物語の内側(敬太郎の位置)から眺めている感覚になる。言語化するのが難しいのだけど、全然違う時代を生きている人が書いた作品なのに、登場人物の心情とシンクロできる。

たいてい小説を読んでいるときには頭の中にそのシーンの映像が思い浮かぶのだが、本書では一度、映像だけでなく音や感触も一緒に感じて何だか怖くなって本を閉じた。いやマジ。そのくらい没入感がある。

読みやすくて言葉が美しい。過分がなければ不足もない。ページを俯瞰すると漢字ばかりでとっつきにくそうな感じがするのに、一行一行追ってくとスッと頭に入ってくる不思議。

あと物語の内容にはあまり関係ないが(いや結構あるか?)、「高等遊民」というワードを初めて知った。家がお金持ちで働かなくても生活できるので大学を出ても職にあくせくせず、読書などして過ごす人のことを言うらしい。パワーワードで笑ってしまった。私も高等遊民になりたい。


 

 

『遺伝子 ──親密なる人類史』──鮮やかなストーリーテリングに引き込まれる一冊

 

医師・がん研究者シッダールタ・ムカジーによる『遺伝子 ──親密なる人類史』は、遺伝学がどのように発展してきたかという道筋を、著者自身の家系に潜む遺伝的な精神疾患の話を織り交ぜながらたどる一冊である。

上巻ではメンデルのエンドウマメの実験までさかのぼり、遺伝子が発見されて研究が発展してゆく歴史を解き明かしていく。下巻では1970年〜本書が書かれた当時(2015年くらい?)までの比較的最近の遺伝子研究について綴られている。

ビルゲイツのおすすめということで気になっていた本。遺伝学の歴史と自身の家族の病歴という個人的な話の折り混ぜ具合が絶妙だった。上巻はメンデルのエンドウマメやダーウィンの進化論など学校の勉強っぽい話が続くのに飽きさせないのは、語り口のうまさによるものだろう。以下では、特に面白いと思った話をいくつか挙げていく。

 

ミトコンドリア・イブ

現生人類が持っているミトコンドリア卵子に存在する細胞のエネルギー生産工場)の祖先は一人の女性だという。すべての人類の系統をたどると、20万年前にアフリカにいたひとりの人類共通の母親へと辿り着くらしい。ミトコンドリアは母親からのみ受け継がれ、世代を経るごとに絞られていくので、一人に絞られるということだ。

遠いアフリカの何万年も前のミトコンドリアが現代のわたしたちに存在してると考えると、なんだかロマンがある。どんな人なのかはもちろん知るよしもないが、人類遺伝学では彼女はミトコンドリア・イブと呼ばれている。

 

ジェンダーと遺伝子

あとはジェンダーと遺伝子の話も印象的。大学のときにジェンダー(社会的性別)という概念を知ってから少しして、「ジェンダーはグラデーション、流動的」という言葉もよく聞くようになった。ジェンダーがグラデーションというのはなんだかしっくりきたし、ほっとしたような気もした。

しかしちょっと疑問だったのが、自分が思う自らの性別は、自己認識によってのみ決められているのか?ということだった。それとも生得的な、遺伝子も関係しているのか?人の生物学的な性別はxとy染色体で決まるが、ジェンダーに関与する物質はないのだろうか?

それらの疑問に対する一つのアンサーをもらうことができた。なんと1993年にジェンダーに関与する遺伝子が発見されていた。当時発見されたジェンダーに関係する遺伝子は一つだったが、その後の研究で他の遺伝子も関与している可能性があるのが分かった。

ジェンダーには遺伝子が関与している。そして、単一の遺伝子のスイッチでオンオフされるものではないのではっきりと白黒つけられるものではない。ジェンダーがグラデーションというのは、遺伝子的な観点から見ても矛盾しないどころか理にかなっている。

これを知れただけでも読んだ甲斐があった。私は積極的に男になりたいわけではないけど、もし明日いきなり男になったとしても違和感なく暮らせそうだとずっと考えているのも、もしかしたら自分がスペクトラム上の男寄りのほうに居るからなのかもしれない。

 

おわりに

ほかにも、「敏感さ」を決定する遺伝子があるという話も面白かった。外部からのストレスに耐えられやすいかどうか。長、短の2種類の型があり、短い遺伝子だと外部からの刺激に敏感で、長い遺伝子だとそうでもない。自分は100%短い方の遺伝子だろうな、、、。もちろん、繊細さはその遺伝子だけで決定するわけではなく、色んな要因があるというが。

遺伝子研究は優生学など良くない使われかたをしてきた歴史があるし、その反省でしばらく研究が進まなかった空白の期間があるという。確かにややもすれば今でもマイルド優生学的な方面に陥ってしまう危険性がある一方で、私が「ジェンダーが流動的なのは遺伝子で裏付けられている」という事実にどこかほっととしたように、救われることもある。もっと実際的に命が救われることもあるだろう。陳腐な感想になってしまうが、やっぱ使い方が大事だよな〜と思った。